吉見 幸和に

 一六七三年〜一七六一年(生没年)
 江戸の中期に活躍した神道家。
 
 名は「こうわ」「ゆきかず」ともよむ。字は子礼。通称を定之助、勝弥といい、号は恭軒、
風水翁など。
 
 吉見家はもともと「園崎」の姓であったが、祖父の代にて「吉見」姓を尾張徳川家より賜る。

 延宝元年九月十五日、吉見恒幸の次男として生まれる。祖父、父と代々名古屋東照宮の
神官を勤めており、元禄九年(一六九六年)に家督を継ぎ、のちに刑部大輔に任じ正四位下
左京大夫に叙せられた。
 
 はじめ家学を修めたが、のちに浅見絅斎に朱子学及び崎門学を学び、更に正親町公道や
玉木正英より垂加神道や橘家神道の伝授を受け、軍学にも詳しく、また家学の長として資料
の収拾にも努めた。

 こののち、独自の「国史官牒」主義の立場にたって、考証主義を古典研究に持ち込み、
吉田、伊勢、垂加といった従来の諸神道説を批判した。厳密な考証主義により伊勢神道の
神道五部書が偽書であることを実証し、その成果は『五部書説弁』としてまとめられ高い世評
を得た。本居宣長も本書の価値を認め自から序文を附している。

 この考証主義の精神を受け継いだ人材として、吉見幸混、河村秀世、河村秀穎、河村秀根、
須賀誼安、滋野員純、須賀安貞、徳川吉通、徳川継友、難波宗建、園崎知幸、滋野井公澄、
藤塚知直、藤塚知明、源誠之らがいた。

 宝暦十一年四月二十六日没、享年八十九歳。現在、愛知県神社庁の鍋屋上野斎場に
碑文が残っている。

 著書の多くは祭祀関係等のものであり、主なものに、『宗廟社稷答門』・『五十鈴川記』・
『中臣祓蒙訓鈔』・『凶礼問答』・『服忌令問答』・『神学辨疑』・『続神学辨疑』等がある。



                      参考文献『神道辞典』・『神道事典』・『日本系譜総覧』

                            
                           現片山八幡神社宮司(吉見家十一世英和) 

  

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