尾張藩主光友公奉納棟札

この棟札は、尾張藩二代藩主である徳川光友公により奉納された当社の宝物です。
縦 三尺七寸八分  横 七寸八分
                 (横書きで記載していますが、原版は縦書きです)

(表)

左  神明神社

元禄八乙亥歳冬十一月

前大守従二位
 行権大納言

尾張国春日井郡大曽根八幡神社

源朝臣光友公

右  洲原神社

十三日子刻正遷宮

正四位下行民部太輔源朝臣恒幸崇秘焉
奉行      野崎源五右衛門藤原兼純
知事      堀田半七郎  紀   朋之
       左棟梁 松本加平次藤原泰知
       右棟梁 山田権十郎藤原知栄
社職      慶徳源之亟   源  直矩 

(裏)

尾張之州春日井郡大曽根邑者我  二品亜相公之別業也其芳隣有  八幡大神之社謹按

神者本朝人皇十六主応神帝也帝韓曰  誉田天皇足仲彦天皇第四子也母曰気長足姫尊以

皇后討新羅之年歳次庚辰冬十二月生築紫之蚊田幼而聰達玄監深遠動容進止聖表有異焉

皇太后摂政之三年立為皇太子時年三初  天皇在孕而天神地祇授三韓既産之完生腕上其

形如鞆是肖皇太后為雄装之負鞆故称其名謂  誉田天皇大才庚寅春正月丁亥朔即位治卜

四十一年大歳庚午春二月甲午朔戊申崩千明宮時年一百十一才於戯夫  神在胎中平三韓

以異邦為我国之奴僕宜乎称武門之霊神為  源家之祖祖也可仰焉可崇敬奥  亜相公一日
                                                    
視  当社之荒廃欲連再興之斧因命  東照宮神主正四位下行民部太輔源朝臣恒幸使尋其

鎮座之本縁恒幸退雖考之社職久闕其人文献無足徴者蓋夫式内式外神社有名存而今無其

社者又有者存而其名不詳者  当社又雖未詳式内式外及其鎮座之歳月然其神地之所在宮

樹之形状非近世之能所祭且又土人称  八幡宮者其来尚矣豈深容疑乎遂以此言達  厳聴

於此別命恒幸於同姓之内使選学神道而可為  当社之社職幸有源之烝直矩者是恒幸之同

姓而可当社職者也因以彼応挙之召直矩賜録且任以  当社之社職使属恒幸受神道之傳授

矣今茲元禄八乙亥秋九月廿八日重出命新卜宮地修地鎮祭献幣帛於五方主神清其山中営

作  神宮臣藤原兼純奉行経営諸務臣紀明之指揮工匠造役之事工善吏勧晨夜展力越冬十

月十八日恒幸教左右大工使撃神道之槌然後本殿拝殿玉垣華表悉皆成仰望之峻峙博風於

高天原柱則高太板則広厚速畢其功輪奐改観者以厳命無監神徳盛也恒幸奉厳命斎干祭場

場殿三七日以造  御霊函鎖之封之十一月十三日酉刻先安置古殿恒幸率神宦数輩修安鎮

祭而後使社職直矩奉之同刻直矩於  新殿修大殿祭同夜子刻遷  神干神殿其礼最儼然

 本社之左祭  天照大神  右祭  菊理媛命両社遷宮之儀則相次  本殿既然己献宇豆

幣帛於  神前千品萬種如丘打積置而神宦奏神楽平安  大神御心直矩奉幣読祝詞祭祀礼

奠仍旧章無闕矣翌十四日又奏神楽献湯花伏願  神霊来格干茲常磐堅磐夜之守畫之護介

多福於億歳恒幸令不肖幸和記此事之始末及上棟祝文其辞曰
 
  天下泰平  国家静謐  賢君占栄  群臣習吉  陰陽不迷  日月不失  水旱無侵
 
  五穀充実  疾疫没蹤  四民安逸  楽而以安  社頭天長  別殿地久  神威益隆
  
  国基弥厚  四時之間  畫夜之守  如影随形  萬歳不朽
                                     
                                    吉見右衛門 源幸和謹書



以上のことが記述されております。
尚、書をしたためた吉見 幸和については別の項にて記述してあります。

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